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國學院大學博物館へ

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無機的で簡素な校舎群がそびえる敷地内に流れる川、そのほとりに和歌の立て札がぽつりぽつり。塵ひとつ落ちていない。

学生はシンプルなカジュアルウェアに身を包み整然とベンチに座り談笑している。國の學び舎というだけあってエネルギーの注ぎ先が志ひとすじであるようだ。

 


大学と言えば我が母校は年齢も服装も民族も色々で、メッセージ色の強い看板が古めかしい建物に立てかけられ、何処ぞからか発声練習やらアフリカの楽器の音やらシュプレヒコールやら聴こえてきたものだ。そういったものは此処にはない。

 


・常設展

 


常設展は三つのエリアに分かれており考古と神道と学校の歴史である。特に考古の物量は無料にしてはお得過ぎるほど多い。他に特別展が開催されていたので、たっぷり時間を費やした。

 

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縄文時代の出土品の復元されていないものは煉瓦のカケラか壊れた植木鉢かと見紛う代物だが、縄目文様に規則があることを知っていればその分類や作成時期が分かる。縄目模様を付けるための道具を縄文原体と呼ぶが、此処にはあらゆる縄文原体が揃っていて自由に引き出しを開けて良いことになっている。前後に6段ずつ9種類もあって夢中で開けたり閉めたりしていると人の気配を感じて、ん?と顔を上げたらその頃の生活を再現させた男女のマネキンが、「なにしとんねん?」よく尖った石槍を片手に。

 

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おびただしい数の貴重な資料を元に書いたのがこちらです、という國學院大學の先生の論文もいっしょに展示されているのだが、他の品々と同じくガラスケースの中にあって中を読むことはできない。詳しく知りたいなら本を買って読みなさい、あわよくば入学しなさい、ということか。小さなミュージアムショップが併設されている。洒落たグッズと並んで案の定、本棚が充実している。

 

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弥生時代の装飾品はオシャレ命としか思えないほど煌びやかだ。お洒落のためでなかったとしたらお守りか。

特定の土地でしか採取出来ないゆえに交易の様な仕組みが出来たとしてもおかしくない。だが、新幹線も自動車もない当時、糸魚川周辺の翡翠にしても北海道産黒曜石にしても遠方に運ぶ手段は何だったのだろうか。

物の本によると物の行き交いを専門とする業者がいたのではないかという説があるそうだ。物と一緒に言葉も行き交っただろう。途中で失くしたりすり替えたりしない信頼度の高い業者がいた。土地の個性は役割=仕事を作り共通語を作ったに違いない。

その先、商人は近江商人などと、土地に腰を据えて物を売る職業となったが、商売の初めは移住者か旅人だったのではないか。或いはこれは商売ではなくムラ付き合いの一環を出なかったりして。

 


さて、稲を含む農耕は縄文時代にもあったとする説とそうでない説がある。

わたしはてっきり稲作とは弥生時代の代名詞と勘違いしていた。

米を炊くための土器は薄くて装飾性に乏しい。稲作を始めるかどうかでムラが揉めたりしたのだろう。

炭水化物ダイエットが体調に合う人や、焼肉や居酒屋で主食を食さず延々と肉やおつまみばかり食べる人は、稲作文化の導入に「no」を突き付けた生粋の縄文人遺伝子を持っているのだろうか。

 

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飛鳥時代には一方、埋葬文化が充実する。派手で装飾的で興味深い。死後の世界が不自由なく楽しいものになるような工夫がされていると見える。この調子だと生前もかなりゆとりがある。ただし一部の身分の者に限って。墓の巨大化は格差社会の表れだ。

他方、器たちは弥生を経て実用一辺倒になった様に見える。縄文でも実用品だったのだろうが、シンプルさ使いやすさは弥生を経て古墳以降が遥かに上だ。より合理的なデザインに変わったと言うべきか。単なる流行の廃れとは形容しがたい徹底的な装飾性の排除。凝ったデザインの土器を作る余裕がなくなるほど頻繁に争いが起きたか、土地を追われたか…。

 

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だとすると逆説的に縄文土器は、定住した土地にそれが存在した証を残すための規則的な文様だったのだろうか?

わたしは貝塚や環状列石は神さまにモノをお返しする儀式的なスペースだと勝手に思っている。

亡くなった人や使った土器や道具や食べ殻は、壊れたり用をなさなくなったり命を失った後には、元々所属するその土地の神さまにお返ししましょうと。するとなにがしかの形で再生する、と。

そう考えると、縄文土器の文様が地域性に富むことや弥生時代に消滅し始めたことに説明が付く。

文様が神さまとのコミュニケーションツールだったのではないかとわたしは考える。

たとえば海が近いAの土地に住む人はその土地の神さまは波のような形を好む神さまなので、土器を神さまにお返しするときに神さまに受け入れてもらいやすいようA人は土器に波型文様を施し土を掘って納め続けてきた。Bの土地は山地なので波型ではなく山型の文様の土器となった。稲作を始めようとしたAの人はAでは田んぼができない土地だと分かりBに引っ越した。そこには海がない上、土地争いに負けたBの痕跡を消すべく、ABどちらの文様をも作る必要は無くなり文様は失われ、新たに稲作の神さまを崇めるようになった。そうこうしているうちにCから田畑をよこせと争いを仕掛けられて追い出され、もう土地アイデンティティの文様なんか付けている暇はない。とにかく明日煮炊きできる分の器を作れ、早く乾燥させたいから薄く作れ、とシンプル化した、とか。

 


真偽のほどは全くのミステリーで、わたしの想像の範囲を超えないし解明されることを希望もしない。謎は謎だから面白い。物を見ることは想像力を刺激することだ。歴史を知ることは未来を想像することだ。

残された物の変化をこうして時代ごとに見比べると、何が獲れる(採れる)土地か、が価値を作り交易を生み豊かさを左右し、食の変化が土地を分割せしめ、社会に格差を作らせ争いに至らせたのだと想像できる。土地の特徴が社会を作るのだ。

 


・特別展和歌万華鏡

 

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書を見る時には、内容や読める読めないに拘わらず字の風情に共感するかどうかで見る。それから内容や背景を知る。

拾遺和歌集の恋の歌は字もやっぱり恋愛感情に揺れている様だった。

令和の出展「万葉集」には一角一角に祈りが込められている。歌集とは対照的で、或る意味の「単位」であった。

万葉集」は、ひとりに伝わればよいという刹那的な字は無く後世どんなに流行りやノリで言葉の意味が変化しても、その言葉に込められた意味を何が何でも残そうという芯の強さが感じられた。元号が令和と決められたが、機能としての文字だけではなく言霊とはそういう事なのだなぁと実感する。常設展と連続して拝観したせいか、縄文土器の文様がやはり文字のような役割があると思えてしまう。

 


そもそも「和」とは何か。

たとえば「和をもって貴しとせよ」は「仲良きことは美しきかな」ではない。納得いくまで議論し尽くしなさいという意味で、「さからうことなきをむねとなす」という続きが存在する。

「惡」とは大昔を辿れば、ときの権力に「逆らう」ことであった。権力社会において「和」の反対語は「惡」と言えよう。

「和」はAとBの距離が縮まり合わさることで、「惡」はAとBの距離が伸びて相容れないことだ。

これらの言葉の前提として必ずAとBという対立構造がある。

「和む」前にも「和解」する前にも必ず穏やかならざる状況が存在しているべきで、それを対立と言わずして何と称するだろうか。

 


大小、生死、勝敗、苦楽、愛憎、万物は二つの対極する概念から成り、混ざり合うバランスで世界が成り立っている。

 


これが少なくとも万葉集が編纂された頃から後世に伝えたかった「和」という文字に込められた祈りだろう。

 

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