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番外編【終演後の対面】銀座 蔦屋書店 トークイベント運慶展に寄せて

若山牧水に”まろびる”という言葉があります。円びる、と書いて”和む”、”丸く収まる”、”自由自在に転がる”と使います。


笑いを盛り、理性の武装を削り取り、トークを”転がし”、場を”和ませ”る片桐仁さん。

粘土も”自由自在に転がす”その手が境界線のソトから向かって来る知らない人の手をどう捉えるのか、書いてみます。

 

 

 

トークイベント終了後、他の講師のかたがたと同じようにお席に掛けていても宜しかったのに、しゃんと起立して四メートルほど先に積まれたイベント関連書籍とそこに立ち寄るお客さんがたを眺めておられます。


お声がけしたものの、サインして頂くご著書に、まったき空白ページは見あたりません。

「これ難しくて…大体ここか、ここに書くことが多いんですけど、どうしますか?」

選ばせてくださいました。
レジを通したら、お店の、俺の、ではなくあなたの、だよね?と、当然のような風情で。


そよ風のようにさり気なく優しさを振りまいてしまうのは性分なのだろう、と気を取られていると、抑揚を付けずに名前を呼ばれ、名乗ったことを忘れていた事に気付きました。
握手は時間にして呼気の始めから終わりまでの長さくらいでした。


差し出した私の右手をご自身の右手で取ってから、反対の手で包まれました。

 

 

 

片桐仁さんの手は、ハイジのシーツでした。
アルプスの少女ハイジとアルムおんじが干し草のベッドにシーツを敷く場面で、シーツの四すみを持ち空中にはためかせて空気の層をまぁるく作る。

 


左手の中で温まっている空気の層が半拍遅れて此方の手を包みます。
緊張していたことすら、忘れます。
空気だからなにも存在しないのに、飼われている犬の気持ちになります。
きっと小動物でも驚かされずに触れられる。


その後、手指・手のひらが淡く降りてきて、わずかに重みを預けられました。
百年に一度発掘された貴石を扱うような丁寧さと確実さで。

 


天真爛漫でたまに粗野にさえ見える気取らなさを好いと思っていたのに、そんな風になさるなんて戸惑うじゃないの…。

 

 


 


 「ちょっと遠いですけどギリ展行ってくださいね?」

 


お言葉の内容は遠慮がちで声のベクトルは6メートルほどの遠的(えんてき)にもかかわらず、背を向け立ち去りかけたわたしの行く先を遮り、みぞおちを正確に射抜きました。


そうだった、片桐仁さんは発声のプロでもいらっしゃるんだった…と、答とは違うことを考えました。

 

 

 

何かの対談記事で、僕は幸運で、周りに引き立ててもらって今の立場がある、というようなことを仰っていました。

対面すると所作の端々に、磨き上げられた手練(しゅれん)を垣間見ました。

それらは自然で、心がこもっていて、直感的な振る舞いの中に瀟洒さを宿していました。

 


まど・みちおさんのように子どもの感性で面白がり、若山牧水のようなまろびの触感で手中で融和させる。

 


その手の中には多くのかたがたから貰い受けた宝が納まっていて、それらを大切にするのと同じように差し出された手を重んじるのかもしれません。