エッシャーが命懸けで守った男。メスキータ
わたしは今、最高にホロコーストが憎い。胸に溜まった憎しみが今にも喉から出てきそうで代わりにこれを書いている。
初来日のメスキータ展は自画像に始まり撮影可の巨大吊り下げタペストリー部屋に終わる。
美術展のタイトルに、その人の作品がほとんど展示されていないのにメインで展示されている人よりも前に記されている例をわたしは今まで見たことがない。今回はそのような少ない例だ。
木版画は木の繊維に沿って彫らないと剥がれてしまい難しい。一気呵成に筆を運んだかのような線。繊細な技術と大胆なデザインに感心しきりで順路を進んだ。
格好良い商業用デザインも、余計な物がない自然や人物も、試試行錯誤が感じられる自画像も可愛い動物たちも、その動物を管理していた飼育員さんの横顔も、メスキータの対象への愛が感じられる。
どれもこれも好いなぁとほくほくで角を曲がると、第4章の悪夢のドローイングに殴られた様な衝撃を受けた。
変だな怖いなでも惹かれるな。
それは大海赫氏の絵本に通じる。そういうテイストが好きなのだ。
だがメスキータのドローイングには、そのような好き嫌いを通り越して心に直接明確なメッセージを訴えかけてくる。
メスキータはホロコーストで亡くなった。
邪悪な権力に制圧されて抵抗しひねり潰され狂う心がキャンバスに吐露されている。歪んだ世界を緻密に描き出す第4章のドローイングの数々は圧巻だ。写真でお伝え出来ないのが残念だ。
ナチスへの直接的な批判は決して許されなかったこの時代にせめてものアートでの批判だったのだろう。
メスキータが描いたのは市井の普通の人の異常な感情だ。
これらを命からがら持ち出したエッシャーは、いつ捕まって師匠と同じ目に遭うか、どんなに怖い思いをしたことだろう。エッシャーの師弟愛の深さと芸術を守ろうと命をかけた鼓動が、保存性の高さから伝わってくる。
メスキータは天才だ。
ファンタジーと解釈されるドローイングの数々を見て確信する。
だが天才にこんなものを描かせてはいけない。
こんな歴史は絶対に繰り返してはいけない。
ミロスワフ・バウカの「石鹸の通り道」にも衝撃を受けたが、メスキータのドローイングにはもっと心をえぐられた。
彼の悲しい最期に悔しい涙を、雨上がりの終着駅に一杯染み込ませてしまった。
あれ?これだけしかないのか。
ここは東京駅である。新幹線の待ち時間にまわれてしまいそうだ。点数が少ないからゆっくりじっくり見ることもできる。
しかし本当のところこれだけしかないのは迫害によって破壊されてしまったせいだ。
彼らは、メスキータの命だけでなく作品もゴミのように扱った。
憎しみからは憎しみしか生まれない。わたしは彼の作品を命がけで守ったエッシャーに愛と賞賛を送りたい。
東京駅舎の一部なので煉瓦壁は重要文化財だ。
崩れかけた煉瓦に「ふれないで」と貼り付けられた注意書き。歴史の重さを感じさせる。
東京ステーションギャラリーは人の出会いと別れを見下ろしながら、人間の素晴らしい面も残酷な面も語り継ぐ宿命を負わされている。