4/4【二度目の観覧】葱嶺の雄姿
真っ黒な中に真っ白で
「片桐仁」
ひとりだけ流れてきたエンドロールに、最後の一滴までしぼり取られました。
更に眺めていると、わたしもよくお世話になる
「小林製麺」
あ、ラーメンズ。
試写会に次いで、二度目の観覧。
「ラーメン食いてぇ!」
思い入れのせいか、ふくまつみさんは父方の祖母に瓜二つに見えました。
この作品に無くてはならない存在です。
「死が、あたかも一つの季節を開いたかのようだった」片桐仁さんの過去作でこのナレーションを聴きました。
卒論に替えた創作小説にわたしは一粒の麦を題材にしました。
復縁の犠牲とされた訳ではありませんが、物語にはよく使われるモチーフとして、生者の縁を再び結ぶ死者が描かれます。
彼女の満面の笑みは、この作品の結びを暗示しています。
ヒマラヤ岩塩に出逢えてからの赤星亘は表情が一変し、声にも明るさが蘇ります。脊椎のカーブも変わります。
取り戻した生きる気力を表現するのに、実に身体の隅々にまで神経を配るものなのだと瞬きを忘れました。
また、こんな地味で古びた服の片桐仁さんをわたしは初めて観ました。現地で調達したと聞きましたが、希代の格好良さでした。
彼の普段のファッションは、地球上のすべての素敵なものを詰め込みました!と言わんばかりの冒険心と色彩のエレクトリカルパレードで、造形作品に通じるところがあるように思うのですが、この映画では真逆でした。
有り合わせの服は片桐仁さんのお芝居を際立たせ、生きるための最小限を携えて暮らす現地住民に溶け込ませます。
赤星亘が天と地と一体となるシーン。天職に生きる男のみなぎる野生が浮き彫りになりました。飽くなき食への探究心、食を通して生きる喜びを表現する使命を負った赤星亘の万感。
それが虚構と判っていながらわたしには、パフォーマンスアーティストとしての片桐仁さんご本人に重なって見えたのでした。
飾らない、土にまみれ風に吹かれたままの背中は観客の喜びを背負い、ヒマラヤ山脈の広大な景色を味方に付けてしまったようです。
好きなものに一途なだけではなく表現者としてお仕事に直向き。そんな片桐仁さんの現在の生き様を記憶に保存しておきたいと思ったのかもしれません。
仰向けに横たわる顔の凹凸に乾いた太陽が作る陰影にふと、息をしていないんじゃないかと目を凝らします。
それは錯覚で、造作に胸が高まったからなのか、この人もこんな顔をして眠るのかと知らない一面を垣間見てしまったからなのか、それらすべてなのか噪音にしばし胸中が鎮まりません。
ストーリーを追う思考が停止し、浅くなった呼吸は長い素潜りから水面に顔を出したばかりのような息継ぎを必要とします。
太陽光のした、眼鏡を外した寝顔の数秒は唯一作り込まれておらず、わたしがしてしまったことはおそらく、片桐仁さんの素を探すことに過ぎません。そういう自分に、初めて気付いて唇を噛みしめました。
奈良を舞台にした片桐仁さんの映画は随分と過去のものでした。
本作ではあれから百も二百も主演なさったかのような、目覚ましいご活躍ぶりを拝見しました。
このところの飛躍は目覚ましく、追えども追えども果てしなく世界に駆けて行くひとです。